HANS
―闇のリフレイン―


夜想曲3 Nacht

2 少女は夜の国へ


「お待たせしました」
結城は買って来たココアの缶を差し出した。
「ありがとう」
二人はそこで簡単な食事を済ませると公園の中を散歩した。
「龍一の他にも能力者の仲間がいるんですか?」
ハンスが訊いた。
「あとは、中学生の女の子が一人」
「日本には風の能力者が多いんですか?」
「具体的な比率というのはわかりませんが、僕が知り合った二人は闇の民ではありません。僕もそうでしたが、そうなると、能力の差はあれ、潜在的にはかなり多いのではないかと思います」

「でも、僕や君と同じレベルの奴はそうはいないでしょう。浅倉はどれくらいのレベルですか?」
「3年前、風の狩人同盟にいた時は欧米基準でいうレベル5でした」
「つまり、風の力で人を殺すことが出来るレベルということですね?」
殺すという言葉に一瞬身を強張らせたが、結城は頷いた。
「そうです」
「龍一は?」
「あの子はまだ覚醒したばかりです。闇の風を見ることと、ヒーリング能力を持っている。しかし、レベルはまだ4には至っていません」
「意志の力ではコントロール出来ないということか。でも、まだ上がるかもしれませんね」
「そうかもしれない。でも、それはあの子を苦しめることになるでしょう。やさしい子なんです」
「それは、直人君もでしょう?」
言われて彼は苦笑した。

「龍一と少女にはいつ会わせてくれますか?」
「今週の土曜か日曜なら……」
「じゃあ、金曜日にまた来ます」
「あ、わざわざ来られなくても、電話かメールで連絡を付けられますよ」
「僕が来たいんですよ。それに、ここはジョギングするのにいいコースだから……」
「わかりました。では、金曜日に」
食べ終わった軽食のラップと缶を結城は屑籠に捨てると学校へ戻って行った。


それから、ハンスはぶらぶらと通りを歩いてショッピングモールに向かった。師走の風に急かされるように人々が溢れ、店頭に飾られたツリーやクリスマスソングのBGMが心を浮き立たせた。
「クリスマスか。何をあげたら君は喜んでくれる?」
彼は様々な物を見て回った。しかし、どれも彼の気に入る物はなかった。宝石、洋服、時計、人形に花束、そのどれもが特別ではない。そして、彼女はブランド物にも拘っていない。むしろ、自分には似合わないからと言って拒む。

――わたしには無理。それを持つに相応しい人格が備わっていないもの

それが彼女に不足しているとは思わなかったが、本人がそう言うのでは仕方がない。彼は指輪が並んだショーウインドーを眺めてため息をついた。
「きれいなリング……」
それを彼女の指にはめたら、どれほど素敵だろうと思う。しかし、彼女はそれさえも望まない。

――今すぐ結婚しよう! 君の好きな指輪を買ってあげる

日本に到着した時、空港で言うと、彼女は少し考えさせてと言って、駆け去ってしまった。
(僕の可愛い小鳥。無理に追えば逃げてしまう。強く握れば死んでしまうかもしれない。それでも僕は君を捕まえたいと願う。逃げ出さないで……。僕を置いて、どこにも行かないで欲しい……)
彼は迷った末に真珠の指輪を一つ買ってポケットに入れた。
それから、室内に飾るクリスマスの置き物や装飾品もたくさん買った。

この街にももうすっかり慣れた。隣近所の人達とも顔見知りになったし、今では子ども達にピアノを教えることさえしている。
「そうだ。この僕が、先生と呼ばれ、ピアノを教えている」
ハンスは鏡の中の自分を見て苦笑した。
「ピアノ……」
BGMに混じって聞こえる音を拾うと右手で奏でた。それはどこか滑稽な響きがすると
彼は思った。


その子ども達との出会いは、2週間前。たまたま立ちよった教会でのことだった。急に伴走者が来られなくなって困っているという神父の話を聞き、その代理をハンスが買って出たことで、子ども達が演奏に興味を持ったのだ。

「こんなのちっとも曲じゃない!」
初めて鍵盤に触れた5才の遥は不満そうに口を尖らせた。
「曲ですよ。ほら、弾いてみて」
ハンスは、そう言うと遥に指1本で弾かせたドという音の連なりに美しい伴奏を付けた。それはまるで荘厳な光が織り成す天使の調べのように礼拝堂の中に響いた。
「すごい! きれい!」
「ほんとに曲になった!」
クリスマス会の歌の練習のため、集まっていた親子が、彼の周りを取り囲んだ。

「ねえ、もっとおしえて!」
「わたしも!」
「ぼくもピアノひけるようになりたい!」
みんなから頼まれて、彼はそれを承知した。子ども好きなハンスにとって、それを断る理由など何もなかった。それから、彼は家で子ども達にピアノを教えるようになった。

「よかったわね。これで、もう白神さん達からヒモだなんて悪口言われなくなるわよ」
近所の人達の心ない噂を気にしていた彼に美樹が気遣って言った。
「そうですね」


「もう、すっかり慣れた……」
店の柱に埋め込まれた細い鏡の前に立って、彼は呟く。
「この街にも、美樹や周囲の人々にも、この姿にも……」
それでも、彼は何かが欠けていると思った。クリスマスの用意は整っていた。家も電飾で飾った。アドベントカレンダーの小箱は、順調に開いて行く。
「でも……」
何かが足りなかった。何かが違っていた。塞がれたコップから溢れ出るものが寂しかった。

――梳名家の裏切り者

新幹線で少年が口にした言葉。その真相を解くために、今夜、増野と会う約束をした。増野は、結婚する前、絵本作家をしていた彼の母が世話になっていた編集者だ。当時の彼女の状況を知っているただ一人の人物である。

「母様もこんな気持ちになったのだろうか? たった一人でドイツに行って……。知らない人ばかりで……。それで……」
ふいに彼の前を幼い少女が駆けて行った。癖のある金髪の長い毛をピンクのリボンで留め、ふわりとしたスカートの裾が靡いている。米軍基地と隣接しているこの街では日本人以外の人達もよく見掛けた。

――少女は夜の国へ駆けて行ったの。少年を残して……

以前、美樹から聞いた物語を思い出してハンスは少女の後を追おうとした。作家をしている美樹は、ベッドの中でよく自分が創作した物語を聞かせてくれた。ハンスはそんな話を聞くのが好きだった。この少女の話もその一つだ。

遠い未来。能力者の少年と少女が出会って、つかの間の交流をするその話をハンスは気に入って、何度もねだった。少年が持っている悲しみと、少女が飼っている猫達の愛らしさが干渉し合い、二人で遊んだ観覧車の灯りがとても印象的だった。特にラストシーンでは、逝ってしまった少女の幻と共に少年が夜の観覧車の影に消える瞬間を思って胸が熱くなった。絵が無くてもその光景が瞼の裏に浮かぶ。

少年は世界を救った。しかし、一番愛した少女を救うことは出来なかった。
「だけど、僕なら救える。あの女の子だって……」
彼は急いで追い掛けた。そこには猫がいる筈だ。少女が可愛がっていた白い猫のピッツァと黒い猫のリッツァが……。しかし、そこには何の影もなかった。夜に灯ったイリュミネーションも、長い観覧車の影も、何も……。

――そう。灯った筈の灯りはすっかり消えてしまったの。それで、少年はまた、別の街に行ってしまったの。人間のいない街に……。一人で……
そうして、物語は閉じられ、美樹は眠りに落ちて行った。

少女はエレベーターに乗って行ってしまった。一人で……。
「だけど、今はまだ夜じゃない」
照明が反射する床。棚に並べられた商品。そして、様々な洋服を着た人間達が無秩序に動いている。
「ここには人間しかいないんだ」
少女を見失って彼はがっかりした。

それからまた、宛てもなく店内を歩いていると本屋の店頭に並んだ絵本が目に付いた。そこで、彼は中に入ると店員に尋ねてみた。
「星谷美和(ほしたにみわ)の絵本を探しているのですが……」
星谷というのは母の筆名だった。その店員は在庫やデータベースを熱心に探してくれたが、そういう作家の本は見当たらないと申し訳なさそうに言った。
(やっぱり消されたのか?)
彼女に関する資料は何処にも残っていなかった。出版されたという痕跡も消され、戸籍さえも存在していない。

一年前、その件についての調査に協力してくれた飴井も、これは妙だと首を傾げた。美樹が幼い頃に読んだという絵本のことを教えてくれなかったら、増野に辿り着くことも出来なかったろう。増野はドイツへ行った美羽と、しばらくの間文通をしていた。そのやり取りの記録と、貴重な写真も保有していた。そして、何より、美羽の息子であるハンスに対して好意を持って迎えてくれた。そして、今は無縁仏となっている美羽の墓の場所を教えてくれたのも増野だった。

(どうして、もっと早く思いつかなかったんだろう。彼なら、もっといろいろな事情を知っているかもしれない)
1年前にはわからなかったことが、解明されて行くかもしれない。それがたとえ、どんなに悲しい記憶だったとしても、自分にはそれを知る権利があるのだと、ハンスは強く思う。

「ミャア!」
その時、いきなり耳元で聞こえた子猫の声に、ハンスははっとして振り返った。
「あれ? ペットショップだ」
通路よりにあったケージの中で3匹のシャム猫達がこちらを見て鳴いている。
「ふふ。可愛いな。でも、僕が欲しいのとは違う」
彼はしばらくそのケージを覗いていたが、残念そうに首を振った。その隣にも子猫がいたが、やはり毛色が違う。

「子猫をお探しですか?」
近くにいた店員が愛想良く話し掛けて来た。
「はい。僕は白いのと黒いのが欲しいんですけど……」
「どんな模様のが好みですか?」
「模様じゃなくて、真っ白い毛で青い目をしたのと、黒い毛で緑色の目をした子です」
「それなら、近いうちにペルシャの子が入りそうですよ。ただ、黒いのはちょっとわかりませんが……」
「なら、すぐに産んでください」
ハンスが言った。店員は困惑してその顔を見つめる。

「そうおっしゃられましてもそれは……」
「どうしても、クリスマスまでに欲しいですよ。何とか産んでください」
「一応、ブリーダーの方や系列の店に訊いてみますが……」
「必ず手に入れてください」
ハンスは強く迫った。
美樹は子猫を欲しがっていた。具体的に飼いたいと言った訳ではなかったが、あの少女の話をした時に、ハンスにこう訊いて来たのだ。

――あなたは猫が好き?
――もちろんです。でも、今まで飼ったことはありません。ルドが駄目だと言うんです
――お兄さんは猫が嫌いなの?
――いいえ。でも、僕達、よく出掛けること多かったから、やっぱり飼うのは難しかったです。美樹ちゃんも猫が好きですか?
――好きよ。ふわふわとして、愛らしくて、撫でたくなっちゃう。猫がいたら、きっと楽しいでしょうね

それで、ハンスは緑の目の黒猫と青い目の白猫を探していた。それが、彼女が創作した話の中に出ていたからだ。

「黒いのも見つかるといいな」
彼は、ペルシャの子猫を予約すると店の外へ出た。夕闇が空を染め、ちらほらと街灯が灯り始めている。


「すっかり遅くなっちゃった」
ハンスは腕時計を見た。そのガラスに風の影が映る。
(誰かいる!)
それは不穏な風だった。
(能力者か? それとも……)
視線はじっと彼を見つめている。それは知らない気配だった。
(敵か?)
ハンスは緊張したが、相手から攻撃を仕掛けて来る様子はない。

もっとも、通りにはまだ大勢の人々が行き交っている。それらを避けて彼だけを狙うには熟練した技術が要る。あるいはそれらのことなど意に介さないというのであれば話は別だが……。どちらにせよ、彼は自分の家とは反対方向へ歩き始めた。尾行されるのを避けたかったからだ。彼はでたらめに道を歩いた。その気配の主は途中まで付いて来たが、1.2キロ程行ったところで唐突に消えた。それでも念のため、しばらくはそのまま歩き続け、海の近くに来た。

高いビルの隙間から潮風が吹いて来た。そんな風の勢いに乗って、ハンスは宙を飛び、そのマンションの屋上に出た。そこからなら、街の中を一望出来る。暮れて行く空が海に重なって行く様子に彼は見惚れ、駅前に設置されたツリーに電気が灯る瞬間を目にして感激した。
(家に帰ったら、外壁に飾った豆電球にも灯りを点けよう)

――あの光の船に乗って何処までも行こう! 二人で……

彼女と初めて結ばれた夜。1年前の奇跡を思うと、彼は鼓動が高鳴るのを感じた。
(ああ、美樹……どうして今ここに君はいないの?)
彼は叶わない思いに耐えられなくなって自分自身を強く抱いた。

彼女はいつも仕事に追われ、ハンスがいくらほのめかしても、ベッドでははぐらかしてばかりいた。それでも、夜には、二人でよくいろんな話をした。特に彼女が創作した話を聞くのは楽しかった。

物語がどこからやって来るのかは誰にも知りようがない。ただ、彼女が書く物語の幾つかは、実際に世界のどこかで起きている事実と同じだった。ジョンに指摘されてから、彼女はそれを恐れ、絶対に有り得ないようなシチュエーションの物語ばかりを書いて仕事にするようになった。つまり、妖怪物や宇宙物や異世界ファンタジーなどの作品をだ。その中の1作が来年からアニメになると決まった。そのせいで、彼女の仕事の量は増え、今日も朝まで原稿を書き、2時間程仮眠を取った後、都内へ出掛けなければならないと言った。そこで、ハンスは彼女の邪魔をしないよう、いつものトレーニングを済ませると、あちこち回って時間を潰したのだった。

「諦めたのか?」
纏わり着くようなあの視線はもう彼を追って来なかった。陽が沈むと急に気温が下がり、風が冷たくなって来た。
「帰ろう」
彼はそう呟くとエレベーターに乗って外に出た。もう美樹が戻って来ているかもしれない。そして、8時には増野が訪ねて来るだろう。果たしてどんな話が聞けるのか。彼の中で、思いは複雑に駆け廻った。